“In the old [Hungarian] parliament of noblemen, they didn't count the votes: they weighed them. And this is true of papers.”
Paul Hoffman, The Man Who Loved Only Numbers: The Story of Paul Erdős and the Search for Mathematical Truth. Hyperion, New York, 1998.

 

 

拓殖大学HPの情報 (1)

拓殖大学HPの情報 (2)

 


著書(省略したものあり)

●単著

2010 『言語学入門』三省堂

書籍情報   訂正箇所.PDF

 

2006 『日本語音声学入門 改訂版』三省堂

書籍情報   訂正箇所.html

「CDを…」という声もありますが、本書の巻末に紹介してあるHPで音声が聞けるので、そちらを参考にしてください。今ご覧のこのサイトの「音声学」のページにもいろいろ紹介してあります。

 

2006 The Mongolian Words in Kitāb Majmū‘ Turjumān Turkī wa-‘ajamī wa-Muğalī: Text and Index, Shoukadoh(松香堂書店)

書籍情報   Errata.PDF
写本の写真  紹介記事

オランダのライデン大学図書館に所蔵されているイスラーム暦743年(西暦1343年)の写本の校訂と索引。モンゴル語部分のみ対象としているが、対応のアラビア語、ペルシア語、テュルク語も含む。この本は、通訳のための手引書で、もともとキプチャク語に関するものだったが、あとからモンゴル語の語彙集が付け加えられ、表紙の書名の最後に「とモンゴル語」が書き加えられた。

 90年代の後半に、のちに日本語アクセント史の厚い研究書を書いたオランダ人エリザベス・デボアさんがマイクロフィルムの入手を手伝ってくれたが、資料番号を間違えたか間違えられたかして、違うものが送られてきた。変だと思いながら数年間そのままにしておいたが、その後、自分で正しいマイクロフィルムを取り寄せた。それにもとづいて研究を始めたが、白黒ではわからないところやフィルムでは判別できない部分があったので、2003年8月にはるばる現地まで出かけていって、数日間、朝から夕方まで閲覧室にこもって現物を相手に細かな点をチェックし、当時はまだそれほど普及していなかったデジカメで撮影させてもらった。マイクロフィルムの取り寄せから現地での撮影まですべて自費でおこなったが、出版は日本学術振興会から科学研究費補助金を受けることができた。前著に引き続き「世界の文字の中西印刷」の出版部である松香堂書店から出した。巻末には自分で撮ったカラー写真を付けたが、書名にFacsimileと入れるのを忘れてしまった。カバーはイスラームの色の緑にした。

 この松香堂書店だが、松香堂といっていたのが2005年から組織変えがあって松香堂書店となった。世界的なウイグル語学者の庄垣内正弘さんの本や、やはり世界的な中央アジア史学者の間野英二さんの本を出しているところで、自分のちっぽけな本を出すのはちょっとおそれおおかった。

 この本は英文だったので出版社名をローマ字で書く必要があったが、間野さんの本にはSyokado、ホームページのURLにはshokado、会社のロゴにはShoukadohとあり、どうしていいかわからず、専務の中西秀彦さんにたずねると、きちんと決めていなかったのでこれを機に決める、という。結局、創業当時からのロゴにあるShoukadohに決まった(が、以前にオックスフォード出版局と契約を結んだときはどうしたのだろう)。

 なお、この本が出る2年前に「草稿」としてプリントアウトしたものを関係者に配っておいたが、ウラーンバートルのモンゴル語学者ツェツェグダリさんが1語1語画像と照らし合わせて確認して、ひとつ間違いを指摘してくれた。また、出版後に歴史学者の宇野伸浩さんがある単語について情報をくれた。ある雑誌で紹介されたときに、ドイツ人の学者に非常に細かく厳密な仕事と評された。

[後日談]

 この写本の1ページになんだかよくわからない文字で落書きがある。ライデン大学のテュルク語写本のカタログを作成したヤン・シュミットさんもイスラーム写本学の大家であるヤン・ユスト・ウィットカムさんもそれが何だかわからなかった。ボクもいろいろ調べたが解明できず、校訂本の解説部分にはアルメニア字かスィヤークというペルシャ語世界で使われた数字か、と記しておいたが、読めなかったのであるから、そうでないことは明らかだった。

 ところが、2018年に前に勤めていた大学を早めに退職して別の大学に移ったとき、長くなった通勤時間を利用して読んでいなかった本を読み始めた。そうしたら、あるとき電車の中でその文字に出くわしたのである。それは10-14世紀ごろにエジプトで使われたコプト系の数字だった。そのことを2019年の夏に韓国のアルタイ学会で発表したが、アルタイ語そのものについてではなかったのでアルタイ学者の反応はぜんぜんだった。しかし、学会終了後、その予稿集に載った原稿をウィットカムさんに送ったら、Journal of Islamic Manuscriptsという雑誌に出さないか、と言われ、イスラーム学者向けに書き直して出版されることになった。タイトルもウィットカムさんが気の利いたものを考えてくれた。

 オランダはちっぽけな国だが、学問のレベルは高く、イスラーム世界から集めた写本も万の単位で所蔵している。それらはみな、アラビア語、ペルシャ語、トルコ語で書いてあるが、その中でおそらくこの落書きだけが唯一読むことのできないものであったのだろうと思う。その読めない文字問題をボクが解決したので、その写本を所蔵するライデン大学に長年勤めたウィットカムさんはうれしかったのではないかと思う。

 

2003 『中期モンゴル語の文字と音声』松香堂

書籍情報   訂正箇所.PDF

それまでに書いた中期モンゴル語関係の論文を集めて加筆修正したもの。第1部「漢字文献」と第2部「アラビア字文献」に分かれる。アラビア字、モンゴル字、チベット字、キリル字など約10種類の文字が混在した原稿だったが、「世界の文字の中西印刷」だったので、すべて非常にスムーズにいった。(Unicodeとそれに対応したフォントができた現在となっては、どの出版社でもさまざまな文字を簡単に扱えるようになったが、当時は中西印刷の出版部である松香堂ぐらいだった。中西印刷はすごい会社で、ボクの原稿のアラビア字のローマ字化に1か所ミスがあったのを担当の方に指摘されるなど、ふつうの印刷会社ではありえないことを経験した。)出版にあたっては、日本学術振興会から科学研究費補助金を受けることができた。Mongolian Studiesという雑誌で、ごく簡単にではあるが好意的に紹介された。

 この本、カバーの色は、イヌのような顔をした黄色と紺のオランダの電車が気に入ったので、その色にしてみたが、自分のパソコンで見て指定した色と実際のとがちょっと違っていて、ぴったり同じ色にはならなかった。

 

1997 『日本語音声学入門』三省堂

書籍情報

それまでの講義ノートをまとめたもの。「日本語」とあるが、中身は一般音声学入門。書名を「日本語音声学入門」としたのは、イントネーションなどのところで日本語以外の言語をあつかっていないので「一般音声学」とはちょっと言いにくかったからである。図は全部自分でアドビのイラストレータを使って描いた。

 入門書としては初めてイントネーションの解説らしい解説をした。それ以前の入門書、概説書ではイントネーションはほとんど触れていないに等しかった。

 また、インターネットのサイトの紹介を音声学の入門書として初めておこなった。(90年代半ばでも、まだ一般の家庭にインターネットはほとんど入っていなかった。音声や画像となると、できて間もないWindowsはまだ充分に使える状態にはなかった。唯一使えたMacintoshを持って教室に行き、さまざまな音声を聞かせると、テープレコーダーからでなくコンピューターから声が出たということにみんな驚いて、教室全体から「おー!」という声があがった。いまでは考えられないことだ。)

 この本は、いろんな人から好意的な評価を受けて、あちこちでテキストとして使ってもらっている。この本によって、ほんのわずかではあるが、不労所得とはこういうものか、というのを味わうことができた。

 

●分担執筆

2012 『シリーズ きこえとことばの発達と支援 特別支援教育における構音障害のある子どもの理解と支援』(「II 構音(発音)のしくみ」)

書籍情報

編者のひとりが原稿をチェックしてくれた際に、遊び心を出して書いたゴリラの例のところで思わず笑ったと言っていた。

 

2011 『長田夏樹先生追悼集』好文出版(紹介文:「The Zirni Manuscript」「12世紀における蒙古諸部族の言語」

書籍情報

長田夏樹氏の業績のひとつとしてThe Zirni Manuscriptというのがあることは前から知っていたが、それが何か、この紹介文を読んで初めて分かった、という中国語学者が何人もいたらしい。

 

2006 『周縁アラビア文字の世界 (3)』東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所(「アラビア字モンゴル語文献とその表記」)

書籍情報

 

2004 『言語情報学研究報告4 通言語音声研究 音声概説・韻律分析』21世紀COEプログラム「言語運用を基盤とする言語情報学拠点」、東京外国語大学(「モンゴル語」)

書籍情報

 

2003 『朝倉日本語講座第3巻 音声・音韻』朝倉書店(「第1章 現代日本語の音声」)

書籍情報

上野善道さんの厳密な編集のおかげで原稿の不備を直すことができた。編集というのはこのようにきちんとやらなければならないと思った。 

 

2001 『日本語教育学シリーズ第3巻 コンピュータ音声学』おうふう(「第3章 音調の分析」)

書籍情報   訂正箇所.html

コンピュータ音声学というタイトルに中身をどう書いていいのか悩んだ。スウェーデンに滞在していたときに書いたが、日本で出た本が手元になくてこまった。途中、オランダに行ったときに音声学のよくまとまった(と思われる)本を見つけて、プロソディーのところに何が書いてあるかを図から推測し、ところどころ蘭英辞典を引いて見当をつけ、少し参考にした。

 そのオランダで泊まったホテルだが、洗濯をしてくれるというので汚れたジーンズをたのんだら、なかなかもどってこない。翌日聞きにいったら、ずっと忘れられていて、洗濯機の中で脱水されたまま遠心力で内壁に貼り付いてくっしゃくしゃになっていた。

 

●事典類の項目執筆

2018 『日本語学大辞典』 東京堂出版 「母音」「子音」「有声・無声」「音変化」の4項目)

書籍情報

 

2015 『明解言語学辞典』三省堂(音声学関連の15項目と巻末資料5つ)

       書籍情報

3人で編集した。かなり綿密に時間をかけて編集作業をおこなったので、ものすごく大変だった。ボクひとりだったら途中で、もういいや、となってしまうところだったが、あとの二人が妥協を許さない立派な人だったので、苦労はしたが、きちんとしたものができたと思う。

 

2014 『日本語大事典』 朝倉書店 音声学関連の17項目)

書籍情報

 

2011 『音声学基本事典』 勉誠出版 (「音声学」「調音音声学」「音声記号」「IPA」「声調」「音調」「自由アクセント・固定アクセント」「音素」「音便」「単音・分節音」の10項目)

書籍情報   訂正箇所.PDF

 

2010 Commentary Project of the Archive of Central Eurasian Civilization, Seoul National University(무카디마트 알 아답 Muqaddimat al-Adab)

情報

ソウル大学中央ユーラシア研究所のキム・ホドンさんから依頼されて書いたもの。原稿料はかなり高額だったが、あいにく円高の時期だった。ソウル大学のHPに出ている。

 

2006 『音の百科事典』丸善(「ニホン、ニッポン、ジャパン」「転写と転字」「漢字の読み」「日本語の母音は5つとはかぎらない」「声調」「モンゴル語」の6項目)

書籍情報

 

2005 『新版 日本語教育事典』大修館書店(「IPA」「音素」「日本語の母音」「日本語の子音」の4項目)

書籍情報

 

1988 『日本大百科全書』小学館(「モンゴル語」の1項目)

書籍情報

 

●現在書きかけの将来出るかもしれない著書

モンゴル語史研究入門[草稿 2012年版]

書きかけの草稿を簡単に印刷・製本したものだが、2009年版はオランダの学術書出版社Brillの Introduction to Altaic Philology に紹介されている。現在は2012年版が最新。

 

翻訳

2017 クリストファー・ベックウィズ『ユーラシア帝国の興亡』筑摩書房

      書籍情報

アルタイ学者の清瀬義三郎則府さんから翻訳しないかと話がきた。一旦辞退したが、一般向けの本なので大丈夫だ、と著者のベックウィズさんが言うので、専門でもないのに引き受けた。内容を調べながらの翻訳で、ベックウィズさんにも細かいことも含めて数百の質問をして間違いのないように務めた。内容チェックのために関連の論文を送ってもらったりもした。ものすごく時間を使って大変だったが、新しい見方を提出したこの本から多くのことを学んだ。なお、翻訳の作業中に翻訳者の私と出版社の依頼した有能な校閲者によって年号など原著の細かな誤りが発見され、最終的に原著より良いものになったと著者に言われた。(だいぶ前にトルコ語版が出ていたので、買ってぱらぱらと見たが、翻訳上の非常に大きな間違いがあるのを発見した。)

 

2010 エーリ・フィッシャヨーアンセン「音声学・音声学者とともに歩んだ50年」『東京学芸大学紀要 総合教育科学系II』第61集 pp.253-266

本文

1999年にスウェーデンで客員研究員をしていたときにそこの資料室で見つけて読んでおもしろかったので翻訳しようと思ったもの。いろいろな事情で10年後にやっと実現した。 

 

1995 ウィリアム・ロジスキ「『シルク』の語源」『しにか』1995年4月号、大修館書店 pp.76-84

 


報告書省略したものあり

2008 The Muqaddimat al-Adab: A Facsimile Reproduction of the Quadrilingual Manuscript (Arabic, Persian, Chagatay and Mongol). The Alisher Navoi State Museum of Literature (Academy of Sciences, Republic of Uzbekistan) and The Japan Society for the Promotion of Science (Tôkyô) [With Kanno Hiroomi, Kuribayashi Hitoshi, Zakhid Islamov and Khamidbek Khasanov][菅野裕臣氏が“再発見”した写本のカラー複製本、重さはなんと3.5kg]
      元の写本の写真
  複製本の写真


2008 The Mongolian Words in the Muqaddimat al-Adab: Romanized Text and Word Index (as of January 2008). The Japan Society for the Promotion of Science (Tôkyô)[延べ語数約28,000の全テクストと単語索引、A4判で800ページを越える、トランスリタレーションを含むので原文が復元できる]

Text and Index with Corrigenda and Addenda.PDF 

 

2008 A Study of Mongolian and Chagatay in the Muqaddimat al-Adab: Articles and Materials. The Japan Society for the Promotion of Science (Tôkyô) [With Kanno Hiroomi, Kuribayashi Hitoshi, Zakhid Islamov and Khamidbek Khasanov]

Articles and Materials.PDF

 

1926年に当時のソ連邦ウズベク共和国のブハラで発見されたアラビア語・ペルシア語・チャガタイ語・モンゴル語の対訳辞書の研究。その文献は、モンゴル語学者の間では長いこと行方がわからなくなっていたが、2004年の春に、多言語に通じた朝鮮語学者として知られる菅野裕臣さんが持ち前の語学力と行動力でその在処をつきとめ、2005年から3年間、栗林均さんとボクと3人で1000万を超える科研費をもらって研究をおこなった。ウズベキスタンの研究者2人にも協力者として加わってもらった。

 これらはその報告書であるが、1冊目は1000ページを超える写本のカラー複製本で、重さはなんと3.5キロ。これは、狭い分野でではあるが世界的にも反響を呼び、このファクシミリの公刊は、アルタイ言語学史上、記念すべきできごとのひとつとなった(と思う)。世界の関連の大学や研究所に所蔵されている。

 2冊目は、ローマ字化モンゴル語テクストと語彙索引である。ボクが作成した。不明の単語がいろいろあり、完成はできていないが、これをもとにモンゴル語学者は原典を使用した研究を進めることができるようになった。(原文はアラビア字で書かれており、点の位置がずれていたりするだけでなく、文字上は3つしか母音を区別できないアラビア字で8母音のモンゴル語が書かれているので、モンゴル語学者がそれを直接扱うのはかなり困難。)延べ約28000語ある単語のひとつひとつについて、ページ番号、行番号、行中の文番号、文中の位置、トランスリタレーション、トランスクリプション、対応のモンゴル文語形、訳がついている。1938年にロシア人のアルタイ言語学者であるニコライ・ポッペが活字化して並べ替えた本のページ番号、行番号なども入力した。これもA4判で800ページを超えるものとなった。プリンストンの歴史学者ニコラ・ディ・コズモさんが、できあがったらヨーロッパの学術出版社に出版を打診してやると言ってくれたが、残念ながらそれ以来研究は進んでいない。

 3冊目は論文と関連資料で、ウズベキスタン人研究者のゾヒドジョン・イスロモフさんとハミドベク・ハサノフさんから提供されためずらしい資料も含む。

 この3冊はMongolian Studiesという雑誌で「三部作」と紹介された。

 

論文省略したものあり

●日本語

1991 「現代日本語における縮約形の定義と分類」『東北大学日本語教育研究論集』第6号、pp.89-97、東北大学教養部[2つ下の1986年の論文の正誤表あり]

縮約形の意味が誤って使われていることがあり、それが口語形との混同であることを指摘した。そして、縮約形と呼ばれるものの中にはレベルの異なった2種類のものがあることを述べた。

 

1990 「日本語学習辞書における見出し語としての動詞の形について」『東北大学日本語教育研究論集』第5号、pp.84-94、東北大学教養部

ロシア語などの辞書では動詞等がどのグループに属するかがカギとなる形とともに示されており、有益である。日本語の辞書の場合、見出しの終止形の次に否定形を出すべきだと主張した。そうすることによって母音語幹動詞と子音語幹動詞が区別できるからである。


1986 「話し言葉におけるラ行音およびナ行音のモーラ音素化」『日本語教育』第60号、pp.205-220、日本語教育学会


●閩南語(台湾語)

1997 Tone and Intonation in Taiwanese: Tones in Declarative, Interrogative and Exclamatory Sentences, Bulletin of Tokyo Gakugei University, Vol.48, Section II, Humanities, pp. 89-107 [With Tsai Pei-Fen]

本文

声調とイントネーションの関わりを研究した。台湾の高雄から来た留学生の蔡佩芬さんと共同でおこなった。当時は元倉庫だったところを一部仕切ってもらったたった12平米の研究室で、本棚8つとキャビネットひとつをおくと3人座るのがやっと、というところだった。蔡さんはその狭いところで機械による分析をよくやってくれた。 (研究室は2000年5月に倍の広さのところに移ることができた。)後から考えれば、タイトルは「台湾語」ではなく「閩南(びんなん)語」とすべきだった。


●トゥバ語(トゥヴァ語)

2002 「トゥバ語のいわゆる「咽頭化母音」の音響的特徴に関する覚書」『東京学芸大学紀要 第2部門』53、pp. 133-145, 東京学芸大学

本文

声調発生の可能性を示唆した論文。声調の発生、つまり声調を持たなかった言語が声調を持つようになるという現象は、1950年代にフランスのアンドレ・オドリクールによってはじめて明確に示され、これまでベトナム語や中国語をはじめとするさまざまな言語でそれがわかっている。この論文ではシベリアで話されるテュルク語のひとつであるトゥバ語でもそれが起こっている可能性を音響音声学的分析結果から示した。発表したあとで、同じことを言っている論文が2年前に出ていたことを大阪外国語大学(現在の大阪大学外国語学部)の角道正佳さんから知らされた。

 トゥバ語は1980年にインディアナ大学のジョン・クリューガーさんからならった。クリューガーさんの書いた本を使って、ひととおり文法をやったあとで文章を読んでいく授業だったが、50を超える言語を学び、おそらく10ほどの言語について論文や概説書を書いているクリューガーさんも、トゥバ語はそれほどよくはできなかったようで、ボクが日本語からの直訳で意味を解釈して訳すと「アッ、ハー!」と言って人差し指を突き出し、自分のノートを訂正するという場面が2回ぐらいあった。トゥバ語は日本語と語順が同じ言語で、直訳すると意味が自然に解釈できるところがあったのだ。実際の音声は手に入る状況ではなかったが、ちょうどそのときヘルシンキのヤンフネンさんからクリューガーさんあてにテープが送られてきて、聞くことができた。

 その後もトゥバ語は気になっていて、ソ連で出た本や論文を目につくたびに集めていたが、1999年にプラハで国際アルタイ学会(PIAC)があったときに、そこではじめてトゥバ人と会った。別れるとき録音のためのテープ代や送料としてポケットにあった40ドル(多すぎ?)をわたして、のちに録音資料を手に入れた。それにもとづいたのがこの論文であった。

 この論文ははじめ2000年にモントリオールで開かれた国際アジア・北アフリカ人文科学会議というところで口頭発表する予定だった。この学会はむかし東洋学者会議といったが、あるときから「アジア・北アフリカ」つまりヨーロッパ以外の旧世界という意味の言葉に名前を変えた。それもフランス語で呼ばれていたのをあとから英語で呼ぶようになった。フランス語ではCISHAAN、英語ではICANASと略される。(フランス語と英語を知っている人は日本語名からそれぞれが何の略かわかると思う。)その学会は大規模なもので、全世界から2000人ぐらい集まる。イスラーム研究、中国研究、インド研究などはかなり人も集まるんじゃないかと思われるが、アルタイ関係はこぢんまりとしたもので、小さなセションがいくつかあるだけだった。ボクの割り当てられたセションは発表者が4人で、そのうちの1人が議長をかねるはずだったが、当日その時間に会場に行くと、4人のうち3人がキャンセルで、来たのはボク1人だということがわかった。あつまったのは5-6人で、当時ケンブリッジに行っていた歴史学者の二木博史さんもいたが、言語学者は1人もいなかった。歴史学者らを前に音響音声学的分析の話をするのは場違いな気がして、ボクも発表をその場でキャンセルしてしまった。(自費で行っていたのでそうできたが、どこかからお金をもらって行っていたら、場違いでも何でも発表しなければならなかっただろう。) 

 

●中期モンゴル語(アラビア字文献)

2013 The Mongolian Words in the Quadrilingual Vocabulary Preserved in the Topkapı Palace Museum Library.

Kim Juwon and Ko Dongho eds., Current Trends in Altaic Linguistics. The Altaic Society of Korea, Seoul.

 

イスタンブルのトプカプ宮殿の図書館にある写本。現地のテュルク語学者ミュネッベルさんが入手を手伝ってくれた。申し込み用紙などはなく、普通の何でもない紙にお願いの文章を書いて申し込んだ。あとは「連絡を待て」ということだったので、ホテルでひたすら待った。1週間近くたっても何も言ってこないので、またミュネッベルさんと出かけて行ったが、結局何も進んでいなかった。そのとき、書庫が整理中だと知らされ、本来だったらだめだったのだが、たまたま以前にスキャン画像を申請した人がいて、そのときの画像がそこのパソコンの中にあったので、必要なモンゴル語部分を購入できた。画像を出版するときはまた別に金を払え、と言われたので、手続きもめんどうだし、この論文には含めなかった。

 後にローマのアカデミーにある別の写本を見に行ったときに、そこのアラビア語研究者サガリア・ロッスィさんにどうやって手に入れたのかと聞かれた。トプカプは厳しくてなかなか資料を見せてくれないらしい。ロッスィさんは、自分が女だからかもしれない、とも言っていたが、男の研究者からも同様のことを聞いたので、性別は関係ないようだ。ローマにある写本は、本来なら画像は手に入れられなかったのだが、あることがきっかけでロッスィさんと知り合えたので直接OKが出て(知り合いになるということは重要だ!)、自分のカメラで撮影した。また、そのときにタシュケントの写本のことを話したら興味を示したので、あとから複製本と論文の抜き刷りを送った。そうしたら、後にロッスィさんがイタリアで出版した、良質の紙を使った重い立派な本にその論文が引用された。

 

2013 Terminative Case Suffix in Middle Mongol.

Tatiana Pang et al. eds., Unknown Treasures of the Altaic World in Libraries, Archives and Museums. Klaus Schwarz Verlag, Berlin.

ロシア/ソ連の大アルタイ語学者ニコライ・ポッペが1938年に出した中期モンゴル語の本に珍しい語尾が載っており、それがずっと引用されてきた。しかし、それはポッペが原典を読み間違えたことによるものであることを発見し、指摘した。それによって、75年間あると信じられてきたものが実は存在しなかったということになった。この論文について歴史学者のデ・ラケウィルツさんが、あなたの論文の中で一番おもしろい、とメールをくれた。歴史学者にとっては確かに音韻分析などよりこういったものの方がおもしろいのであろう。

 

2011 The Consonant System of West Middle Mongol, Altai Hakpo, 21, pp.51 -67, The Altaic Society of Korea.

 

2009 The Vowel System of West Middle Mongol, Mongolian Studies, Vol.29, pp.141-146, The Mongolia Society, Bloomington.

アメリカのアルタイ学者ジョン・クリューガーさんの80歳記念論文集。Mongolian Studiesの1号がそれに当てられた。2年近く遅れて出た。この論文では、文字の上で母音を3種類しか区別できないアラビア文字で書かれた文献のモンゴル語に8つ母音があったということを子音字の使用法と言語普遍性の観点から示した。

 

2009 An Essay on the Phrase garîblar evvi (Chagatay) / garîbdun ger (Mongol) in the Muqaddimat al-Adab.

Volker Rybatzki et al. eds., The Early Mongols: Language, Culture and History, Indiana University, Bloomington.

チンギス・カンの血を引くイタリア人東洋史学者イーゴル・デ・ラケウィルツさんの80歳記念論文集に出したもの。

 

2005 On the Word <bwrsw> in West Middle Mongolian,

Stéphane Grivelet et al. eds., The Black Master: Essays on Central Eurasia in Honor of György Kara on His 70th Birthday, pp.115-119, Harrassowitz Verlag, Wiesbaden.

モンゴル貴族出身の奥さんを持つハンガリーの東洋学者ジョルジュ・カラ(ハンガリー風だとカラ・ジョルジュ)さんの記念論集に出したもの。

 

2000 「『ムカディマット・アル・アダブ』において ’alif と hā’ で音写されたモンゴル語の語末母音について」『アジア・アフリカ言語文化研究』60号、pp.159-168、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所

 

1997 Graphic Variation in the Mongolian Text of Muqaddimat al-Adab: What Word-medial Final Allographs Imply.

Árpád Berta ed., Historical and Linguistic Interaction between Inner-Asia and Europe, Studia uralo-altaica Vol.39, pp. 295-304, Szeged.

ハンガリーのセゲド市でおこなわれた国際アルタイ学会の発表にもとづくもの。プレジデントをつとめたアールパード・ベルタさんは、漫画に出てきそうな愛嬌のあるおじさんで、親しみを感じた。ドイツ語(おそらくロシア語やフランス語も)のほうが英語より得意だったようで、初めドイツ語と英語でやっていたが、途中からいつのまにかドイツ語だけになった。

 帰りにフランスのステファン・グリベレくん(社会言語学)の小さな車でオランダのハンス・ヌフテレンくん(テュルク語学)らといっしょにブダペシトまで行った。途中の道で娼婦が何人も昼間からすごい格好をして車に向かって客引きをしているのに出会った。ブダペシトでは何人かでモンゴル学者アーグネシュ・ビルタランさん(ハンガリー風にいえばビルタラン・アーグネシュさん)のうちに泊まった。その中にはサンクトペテルブルクのテュルク学者クリャシュトルヌイさんもいた。古代突厥碑文の研究その他で世界的に有名な人だが、威厳があるというタイプではまったくなく、そのへんのちょろい感じのおっさん風だった。また、滞在中にアーグネシュさんの豪快さを目の当たりにしておどろいた。


1996 À propos de l’accent en Mongol médiéval de l’Ouest.

Giovanni Stary ed., Proceedings of the 38th Permanent International Altaistic Conference, pp.299-309, Harrassowitz Verlag, Wiesbaden.

異色の東洋史学者・岡田英弘さんがプレジデントをつとめた国際アルタイ学会(PIAC)で発表したもの。発表は英語だったが、あとから提出した論文はフランス語にしてみた。たまたまいたフランス人学生に見てもらったが、原稿が真っ赤になった。やはりふだん読んでいない言語で書くのはむずかしいと思った。この学会の論文集はイタリアの満洲学者ジョバンニ・スターリさんがドイツの出版社から出せるよう取りはからってくれたらしい。

 このときのPIACは川崎にある、ある銀行の研修所を借りておこなわれた。研修所という名前からは想像できない非常に立派なところだったうえ、主催者はもちろん参加者からの資金援助もあって、用意された食事もよかったし、ワインも飲みきれないほどあった。


1994 「中期モンゴル語における二次的長母音の形成と『ムカディマット・アル・アダブ』のアラビア文字表記」『東京学芸大学紀要 第2部門』45, pp.206-216, 東京学芸大学

      本文

 

●中期モンゴル語(漢字文献)

1998 「パクパ字音写元朝秘史について」『日本モンゴル学会紀要』No.29, pp. 53-59

『元朝秘史』の漢字音訳本の底本となった写本がどの文字で書かれていたかについて、テクストの音声特徴をもとにあれこれ議論されてきたが、そのような議論からは結論を導くことできないことを音写[transcription]の本質を指摘することによって示した。これの改訂版を『中期モンゴル語の文字と音声』に収録した。それを読んでくれた尊敬する中国語学者の遠藤光暁さんが、もちろんお世辞だろうが、服部四郎の上を行く厳密さと評してくれた。服部四郎さんらこれまでの人たちの主張は問題の解決に結びつかないということを示したものなので、服部さんにはもう少し生きていてほしかった気がする。

 

1992 「『元朝秘史』で「延」によって表された中期モンゴル語の音節について」『言語研究』第101号、pp.1-13、日本言語学会

本文

 

1989 「中期モンゴル語漢字音訳文献における子音重複現象」『日本モンゴル学会紀要』第20号、pp.1-16、日本モンゴル学会

気に入ってくれた人が比較的多かった論文。中国で翻訳されたようだが、著者であるボクには何も知らされず、中国から出ているある雑誌を見ていたときに翻訳があることをぐうぜん知った。

 

●モンゴル語

1996 Consonant Gemination in Mongolian, Bulletin of the International Association for Mongol Studies, Vol.17/18, pp. 72-79, Ulaanbaatar.

国際モンゴル学会の機関誌に出たもの。国際モンゴル学会は、学会ができて間もないころ、終身会費として何万円かを新宿の東京銀行(後に三菱銀行と合併して三菱東京UFJ銀行、さらに行名を変えて、現在は三菱UFJ銀行)から送ったが、雑誌が送られてきたのはほんの何回かで、あとはぱったりと止まってしまっている。ボクの会員データがなくなってしまったのかもしれない。

 

●モングォル語

1983 「モングォル語の音韻体系」『言語文化研究』創刊号、pp.9-17, 東京外国語大学大学院外国語学研究科

本文

 

●ハルハモンゴル語

1986  The Consonant System of Modern Khalkha Mongolian, In Honor of Shigeru Takebayashi, pp.115-128、研究社

 

1985 Plural Suffixes in Modern Khalkha, Mongolian Studies, Vol.8, pp.89-98, The Mongolia Society, Bloomington.

      本文

1979年度に提出した卒業論文を英語で要約したもの。新しい点を前面に出すのではなく複数語尾全体の記述という形にしたので、主張すべき内容がちょっとぼやけてしまった。(今の学生と違って、論文の書き方など手ほどきを受けたことはまったくなかったから、こういう経験を積み重ねて学んでいった。)

 

1984 「現代モンゴル語の弱化母音と母音調和」 Lexicon, 13, pp.57-71

 

書評省略したものあり

2012 「土岐哲著『日本語教育からの音声研究』」『日本語の研究』第8巻1号、日本語学会

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日本語学会から依頼されて書いたもの。この書評が載った号が届いたその日の夕方、それも早い時間帯に、ある有名な言語学者から、同意しながら読んだ、苦労して書いた様子が伝わってきた、・・・とメールが来た。

 

2007 「ヤンオロフ・スバンテッソン、他 著『モンゴル語音韻論』オックスフォード大学出版部」『日本モンゴル学会紀要』37

 

2005 「アナスターシア・カールソン『ハルハモンゴル語のリズムとイントネーション』ルンド大学」『音声研究』第10巻第2号、pp.86-89、日本音声学会    本文

この本は、スウェーデン南部のルンド大学(1666年創立)に提出された博士論文が出版されたもの。ボクはその論文の公開口頭審査のオポーネントをつとめた。オポーネントをたのまれたときは、スウェーデンのシステムを知らなかったので、質問するだけならと思って比較的気楽に引き受けた。しかし、その後、日程の調整でヤンオロフ・スバンテッソンさんとメールのやりとりをしていたときに、ほかのオポーネントがだれかちょっと気になったので聞いてみたところ、「ほかにはだれもいない、あんたひとりだ」という返事がかえってきてびっくりした。そのときむこうも初めてボクがスウェーデンのやり方を知らないのだとわかったのだろう、口頭審査の手順を説明してきた。それによると、まずはじめに、論文を書いた本人ではなく論文の内容に対して質問をする立場のオポーネントがみんなの前で20-30分で相手の論文の要約をする、そして「いまの要約はフェアなものであったか、訂正すべきところ、付け加えるべきところはないか」と本人に聞き、そのあとで質疑応答にうつる、というのである。ボクははじめこのメールの文面を斜め読みにしていたので、自分の先入観で論文執筆者が自分の論文の要約をするのだと思ってしまっていたが、何日か後にたまたま(本当に偶然であった)そのメールを読み返したときに自分の誤解に気がついてあせった。しばらくのちに当の論文が送られてきたが、通読1回、精読2回の合計3回も読んで準備した。準備しながら、なぜオポーネントが要約するのかを考えた。自分なりの勝手な推測による結論は、むかし論文をちゃんと読まないでやってきたオポーネントがいて的外れな質問をしたことがあったので、まずはじめにオポーネントがちゃんと読んできたかどうかチェックするため、というものである。

 審査会は1月13日だったが、その前にセミナーでの発表もたのまれていたので(だから余計に忙しかったのだ!)、何日か早めに行った。1泊目はなつかしのコペンハーゲンに泊まって、夕方、急いで本屋を数件めぐった。夕食は、むかしビールの醸造所だったところを改装したらしいレストランで食べた。そこは、ドーナツ型のハンバーグを売り物のひとつとしていたが、そのときのボクは風邪の菌が胃に入ってしまって物があまり食べられない状態で、その魅力的なハンバーグはあきらめ、次回のたのしみとした。

 翌日、列車でルンドに行き(むかしは橋がなかったのでフェリーだった)、アナスターシアさんとその指導教員であったヨスタ・ブルースさん、ヤンオロフ・スバンテッソンさんらに会った。(ブルースさんは、現在主流となっているイントネーション理論の基礎となる研究を若いときにおこなった人で、のちに国際音声学会の会長にもなったが、任期の途中で亡くなってしまった。スバンテッソンさんはモン・クメール語の専門家として有名な人だったが、40代からモンゴル語の論文も書きはじめ、オックスフォードから立派な本を出した。)その当日だったか翌日だったかにセミナーで話をして、次の日に審査会が行われた。審査会の会場は広めの立派な階段教室だった。ひとつひとつの椅子は普通の日本人だったら2人座れるんじゃないかと思われるほど大きかった。そこに学科の人たちやアナスターシアさんの友人たちがあわせて40人ほど集まった。最初にブルースさんが挨拶してボクを紹介し、そのあとは前にボクとアナスターシアさんだけ残されて、みんなの前で質疑応答となった。審査員3人はいちばん前の左の席に座って聞いていた。その会は2時間ぐらいかかって、あとから普通より長めだったと言われたが、問題なくスムーズに進んだ。アナスターシアさんの論文はよくできていたので、その後の密室での判定会議でもすんなりと問題なく合格が決まった。オポーネントは判定を下す資格はなかったが、参考として意見を聞かれた。そのときの被審査者はロシア人、オポーネントは日本人、3人の審査員のうち2人はスウェーデン人、1人はカナダ人だった。審査会は論文の内容とオポーネントの人格によっては大波乱になることもあるそうで、そうなったときは大変らしいが、アナスターシアさんのときは終始なごやかに進んだので、あとでブルースさんから「安心した」と複数回言われた。自分の学生が無事修了してほっとしたのだろう。

 審査会終了後、その日の夕方から、アナスターシアさん主催のパーティーがあった。大学構内にあるカジュアルなレストラン風のところを借りて、ご主人やロシア人の友人たちが食事の準備をしてあった。ご主人はコペンハーゲンでお酒を大量に買い込んできていた。(スウェーデンは酒は高いし、買えるところも少ない。それに対してデンマークでは安く簡単に手に入るので、スウェーデンに近いデンマークの町の酒屋はスウェーデン人でにぎわっている。)パーティーの席上、途中だれかが作った「オポーネントは日本人で、云々」といった歌詞の含まれた替え歌が披露されたが、あとはみんな食べながら歓談するだけというもので、日本のようにひとりひとり何かを言わせられるなんていうことはなくて安心し、ボクはそのスタイルが気に入った。パーティーは自由解散だったが、ボクは最後まで残ってアナスターシアさんとご主人、ロシア人の友人数人と後片付けをして夜中の3時ごろホテルに戻った。アナスターシアさんのご主人が、翌日すしバーに行こうと誘ってくれたが、結局、誘った本人が激しい二日酔いでダウンしてしまったので、ルンドですしは食べなかった。

 むこうで聞いた話によると、同じ学位論文の口頭審査といってもヨーロッパでも場所によってずいぶんやり方がことなるらしい。公開のところ、非公開のところ、平服でふらふらと来ていいところ、指定のガウンを着て片手に帽子をかかえて入室するところ、45分といったきっちりとした時間制限があってベルまで鳴らすところ、ながながと何時間にもおよんでいいところ、オポーネントが審査にも関わるところ、そうでないところ、・・・。(スバンテッソンさんがヘルシンキでオポーネントをしたとき、ガウンと帽子の正装だったそうだが、2004年に中国で出た『蒙古学百科全書語言文字巻』にそのときのカラー写真が2枚も出ている。)

 なお、スウェーデンでは、むかし、論文は提出された後、だれでも見られるように壁に釘で打ち付けられたらしい。もともとはドイツのやり方じゃないかと言っていたが、簡単にコピーが作成できる今もその伝統を形だけ守っていて、アナスターシアさんの論文も新しい建物のきれいな白い壁に取り付けられた古い大きな分厚い板に5寸釘のようなものでとめらた形式になっていた。(実際は、論文にパンチで穴が開けられていて、板に突き刺した大きな釘にぶら下げられていた。)

 

付記(1): 欧州での論文審査会がどういうものか見たことがなかったが、向こうから審査対象の論文が届く前に小坂井敏晶『異邦人のまなざし』(現代書館)という本を見つけて読んだ。著者はフランスの大学で教える日本人だが、その本にはフランスでの学位論文審査会のことが書かれていた。著者によれば、自分たちにとって都合のいい審査員を選んでおこなう、形だけの「半分茶番劇のようなもの」、「内々にやる儀式」だという。実際、ボクの場合も送られてきた論文はすでに出版された本だったので、びっくりした。審査される論文はそれなりの内容でなければ公開の審査会をおこなうことはしないので(何回もやったらその度に審査員やオポーネントを呼ぶ金がかかって大変だ)、不合格になることはまずないのだろう。(ただし、ごくまれにはあるらしい。被審査者はその不合格になった人のうわさを聞いていてみんな心配するようだ。)向こうに着いた日の夜は、スバンテッソンさんとアナスターシアさんと3人で食事をしたが、そのとき心配しているアナスターシアさんの前でスバンテッソンさんに聞いてみたら、公開審査会はやはり「儀式だ」と言っていた。

 

付記(2): イギリス人の大音声学者ピーター・ラディフォギッド氏がストックホルムでオポーネントをしたときの話をスバンテッソンさんから聞いた。オポーネントのラディフォギッド氏は、まずはじめに例によって相手の論文の内容を要約し、それから質問に移った。最初の質問は「これからもこのような実験をやっていくつもりか」というものだったが、相手が「はい」と答えたら、それで質問はすべて終わり、ということになったそうだ。つまり、質疑の時間は秒の単位だったわけだ。それは、世界的な大学者のラディフォギッド氏だったから興味深いエピソードとして語り継がれているが、ふつうの人間がやっていたら顰蹙ものだったにちがいない。 


1991 Genchô-hishi Zenshaku [Annotations to The Secret History of the Mongols] By Shigeo Ozawa. Tokyo: Kazama-shobô; Genchô-hishi Zenshaku Zokkô [Sequel to Annotations to The Secret History of the Mongols] By Shigeo Ozawa. Tokyo: Kazama-shobô. Journal of Asian Studies, Vol. 50, No. 4, Association for Asian Studies.

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1987年に中国吉林省長春市の東北師範大学で日本語を教えていたときに、同じ宿舎にウィスコンシン大学の歴史学者デビッド・バックさんがいた。バックさんからは長春市の建物について歴史的なことを教わった。帰国後も少し手紙のやりとりをしたが、あるとき、自分はAssociation for Asian Studiesの編集長だかなにかをしているが、日本で最近出たアジア研究関連の本があったら書評を書かないか、というので書かせてもらったのがこれである。

 実は、この書評の本の著者はボクの先生だった人である。言語学を志して関連の本を読み始めた高校2年のとき、この著者の書いたものを読んで、その人のところへ行ってモンゴル語学、アルタイ言語学をやろうときめた。目的がはっきりしていたので受ける大学は1校しかなく、勉強の範囲が限定されていたうえ、当時は入試が3月下旬だったので、受験勉強を始めたのは冬休み明けからだったが、なんとか間に合った。(高校3年のときの担任の教師は、1年間毎日昼で帰宅し、予備校にも行かず、受験参考書も買わず、関係のないことばかりやっていたボクを見て浪人すると信じていたし、それを入試の1週間ほど前にあった謝恩会のときに母親に伝えたので両親もボクが受からないと思っていたようだが、教師は1月中旬から激変したボクを知らなかったのである。[しかし、その教師は、ボクのひどい成績の通知表に「深い知識を求めて努力した」というコメントを書いてきたことがあった。学校の勉強、試験のための勉強はバカにしてやらなかったが、学問を志して何かを追求していたのはちゃんと見てくれていたのだろう。・・・ということで、教師として合格とみなしてあげることにしよう。]両親は多少心配はしたかもしれないが、最終的には受験料も安く上がって親孝行をしたと思う。)

 

斎 藤 純 男

齋 藤 純 男

斋 藤 纯 男

ㄓㄞㄊㄥ ㄔㄨㄣㄋㄢ

사이토 요시오

سايتو يوشيو

སཻ་ཏོ་  ཡོ་ཤི་ཨོ་

साइतो योशिओ

Saitô Yoshio

Saito Yoşio

Саито Ёсио

Σαιτω Ιοσιο

[saitoː joɕi.o]